趙雲の失言

 
 あの時死ねばよかった…梨花は紅い唇を血がにじむほどに噛んだ。夫が亡くなった時、なぜ私は自害しなかったのか。

 殉じるほどの男ではなかった。夫は嫌いではなかったし、それなりに幸せな生活だった。義弟の邪な目つきだけが嫌だったが。喪が明けると、案の定、兄嫁の美貌に目をつけていた義弟の範が迫ってきた。「わしの女に」なれというのだ。後ろ盾のない梨花には義弟に従うか自害しか選択はなかったのか…。

 荊州劉備軍が侵攻してくると聞き、はじめ趙範はせせら笑った。むしろ売りの劉備など曹丞相に早晩叩き潰されるに決まっている、その劉備の手下ごときに何ができると。しかし、零陵が陥落し、ここ桂陽には敵方の大将趙雲が驚くべき早さで進軍してきたと聞くと顔色が変わった。趙雲…趙子龍と言えば長坂で曹操軍を向こうに回し、主君の子を抱えて単騎突破したという男ではないか。さらに遠くからみてさえわかる軍の水際立った指揮、とても敵う相手ではない。部下の陳応たちの強硬論に押されて、出陣させたものの、陳応は数合も打ち合わぬうちに趙雲の槍に落馬させられ、結果は惨憺たるものだった。

 その日、梨花は義弟に呼ばれた。
「嫂上も喪が明けたことだし、そろそろ身の振り方を決めていただきませんと…。」
(ほら、とうとう来た…)と梨花は覚悟を決めた。

「実は劉備軍の将趙雲に嫁いでいただきたいのです。」

「えっ?」予想外の言葉だった。

「悔しいが、降服することにした。だが、ただ降るのではない。今指揮をとっている趙雲、字は子龍という男はなかなかの英雄という噂。同姓のよしみで奴と縁を結べばこの先やりやすくなる。嫂上ほどの美しい女人ならまさかいやとはいいますまい。」

 また道具として使われるのか。はじめは持参金目当てに親に売られ、今度は敵将に。世の習いとはいえ、暗澹たる気持ちになった。だが、どんな男か知らないが、この義弟よりはましだろう。

「わかりましたわ。でもまだ先様はご存知無いのでしょう?」

「もちろんだとも。これから降服して、義兄弟の縁を持ちかけてみる。それから嫂上を紹介しますから、せいぜい趙雲のご機嫌をとって下さいよ。」

 桂陽を開城すると、趙範は、大規模な宴会を開き、趙雲を始めとして、将軍達を招いて供応した。贅を尽くした料理に美酒。多くの将兵は戦いの少ない勝利に浮かれ騒いでいた。入城してきた趙子龍をものかげからそっと見た梨花は茫然とした。義弟に話を聞いた後、周りの人々のうわさを聞けば、確かに稀代の豪傑らしかった。しかし、こうして直に見ると威風堂々、丈高く、鋭い眼光でありながら、爽やかな印象が同居していた。志が高く、心根が澄んでいるからだろう。これこそが英雄というものではないか。

「わたくしは本当にあの方のもとに嫁げるのかしら?」
 思わず胸の高鳴りを意識する。だが…嘘をついている時の義弟は、いつもかすかに左手で卓を叩くのだ。今日の範もそうだった。そしてふと…城の奥に、何やら違う雰囲気を感じた。緊迫感。そういえば何人かの主だった部下の姿がない。何やら下卑た笑いも気にかかる。あの笑い方は、この前、後ろ盾がなく、もう他に道のない自分に再婚を迫った時と同じだった。それにあれほど自分に執着していたのに、いくら命や地位がかかっているからといって、あっさり別の男に譲り渡すようには思えない。ふと、謀殺…という言葉が浮かんだ時、梨花は身震いした。もしや自分を与えて油断した隙に殺そうという腹ではないか。

 趙雲は、同姓であるから、どうか義兄弟となってほしいと趙範に懇願されて困り果てた。だが、この男を立てなければ桂陽の統治はままならない。殿は一刻も早く荊州を平定し、基盤を作らねばならないのだ。こうして趙雲は渋々ながら、自分一人のことであるからと結局承知したのだった。年上の趙雲が兄、範が弟ということになった。

 趙雲は、身内として奥の間に通されると、一人の美女が酒を注ぎに入って来た。酒席に上等な白絹の喪服が異様だった。それほど若くはないだろうが、人目を引く美貌…梨花だった。目元は涼しく唇も花のほころぶようだ。いや、その唇がわずかに動いた。

「お気をつけ下さいませ」そう動いたようだ。思わず姿勢を正して見返すと

将軍様、どうぞご酒を…」と艶のある声が返ってきた。ただし目は笑っておらず、かすかに首を振る。すぐに女の表情は艶めいたものに戻った。

「義兄上、こちらはわが嫂の梨花でござる。」と趙範が紹介する。

「嫂上ですと?なぜそのようなお方がこんな酌婦の真似事を?」さすがに趙雲も驚いた。

「実は先だって、兄が亡くなりまして。その喪がようやく明けたので、この若さではと再婚をすすめてはおりましたが、いっこうに承知されないのです。嫂上は、嫁ぐなら同じ趙姓の方で、文武両道、世を蓋うような英雄と言える方でなければ嫌だといっておりましてな。はっはっは…。そんな殿方など見つかるはずはないといっておりましたが、おられるんですなぁ。…どうです、これも何かの縁、嫂上をもらってくださらんか。さすれば義兄上とそれがしとの絆も磐石となりましょうぞ。」

(言うに事欠いて何という空々しい嘘を!)この酒は先ほど犬にやってみたが、毒ではなかったようだ。では酒を飲ませ、酔わせて殺すのかもしれない。そして、曹操にこの地を高く売り渡すのではないか。今でなければ多分寝室を兵が取り囲むのだろう。すばやく趙雲に目くばせをする。今のうちに!


 趙雲は憤然と席を立ち大喝した。

「義理の兄弟とは言え、貴殿にとって嫂上なら、それがしにとっても嫂上ではないか!それを喪が明けたばかりの嫂上を酌婦にしてさしだすとは何事だ!卑しい心根が見えておる。縁は切らせてもらうぞ。」

「お待ち下され、将軍!そのようなつもりでは、それがしはただ…」

「黙れ!」
引きとめようとする趙範の胸倉をつかむと趙雲は腹心の兵を呼び、命じて縄を打たせた。闇討ちに加わるものは一部の兵だったので、城内の兵士達の武装解除は案外簡単に済んだ。

「先ほどから奥の気配には気づいていたのだ。おまえの魂胆は見えておるといったぞ。」といわれ、趙範はうなだれた…。

 趙雲は結局梨花をめとらなかった。趙雲
「まず第一に、平定した土地で元太守の未亡人を奪っては人心がついてこない。第二に、貞女はニ夫に嫁がぬという。第三にまだ趙範の魂胆がわからぬうちにそれほどのつきあいはできぬではないか。」ととりあわなかった。

「それほど美しい女なら妻にしてもよいだろう」
といわれても

「天下に女は少なからず」
と笑い飛ばした。彼の潔さと高潔さは人々に知れ渡り感嘆された…。

それはよかったのだが、一人よくなかったのは梨花だった。趙雲は私情を笑い飛ばしたに過ぎなかったが、梨花にとっては自分を笑い飛ばされたのと同じだった。もっと悪い。まず、自分を妻にする気は毛頭ないと宣言されてしまったのだ。その気のない男にいわれてさえ腹が立つせりふだが、思う男に言われてはたまらない。それに趙範を油断させるためとはいえ、加担した振りをして喪服をまとい、酌婦をするという何とも浅ましい真似をしたのだ。口さがない連中に嘲笑されるに違いない。何という恥…。その夜、梨花はそっと街を抜け出すと、河べりに向かった。月明かりを通して川面に映る自分の顔は歪んでいるはずだ。いつにもまして醜く。
「なぜあの時死ななかったのかしら」

もう他の男などには嫁がない、と思っていたはずが趙雲を一目見て、思わずお仕えできるのなら…と夢を見てしまったのだった。

でも愚かな趙範の嫂、謀殺の片割れになった女といわれ、貞女ならニ夫に嫁ぐなと、娶る気は全くないと断言されて…。もう生きてはいけない。きっと亡き夫を軽んじた罰なのだろう。そして、梨花は河に身を沈めた…

 劉備のもとに出頭した趙雲は手腕をほめられ、ねぎらいの言葉をかけられて感無量だった。宴が終わった頃、軍師の諸葛亮に折り入って話があると呼ばれたので訪ねていくと、意外なことに劉備もいた。諸葛亮趙雲にこんなことを言い出したのだった。

「君が”天下に女は少なからず”といった言葉が一人歩きしはじめたようだ。」

「軍師、それはいったいどういうことでしょうか?」

趙範の嫂のハン氏(梨花)は、このたびの陰謀を知らせてくれたと言うではないか。急いで賞しようと思ったのだが、すでに遅く、趙範の片割れの真似をしたのを恥入って河に身を投げたそうだぞ。」

「!」
あの美しい女人が入水?…趙雲の胸に錐のようなものがつきたった。天下に女は少なからず。あのような言い方をしたものの、趙雲とて木石ではなかった。訴えかけるまなざし、花のような唇がわずかに動いたあの時…。

「子龍よ、そなたも女心には疎いのだな。あのように身もふたも無いいわれ方をしたら女子には辛かろう。その上あさましいまねをして趙範とつるんで、そなたを謀殺しようとしたまでといわれたらしい。」
劉備の表情も厳しい。

「そんな…」

諸葛亮が追いうちをかける。
「それというのも貴殿が身を固めていないからですぞ。どうです、この際妻をめとられては。これは殿のご命令でもあります。」

「ちょうど孔明が手配してくれたところだ。そなたの妻にぴったりの女人がいる。これは命令だ、今日にも身を固めてもらうぞ。」

あまりの話の展開に趙雲、声も出ない。

「こちらが張氏だ。どうだ、いい女だろう。まあ、わしの妻や孔明の妻女ほどの女はそうはおらんが。なあ、孔明よ。」
劉備はまじめな顔をして時々こういうことを言う。

「これは…」
諸葛亮に連れられて入ってきたのは梨花だった。身を投げた直後、後をつけてきた諸葛亮の部下が助け出したのだ。

「貴殿には初めてお引き合わせする。」
諸葛亮は”初めて”というところを強調して紹介する。梨花もわずかに頬を紅潮させていた。桂陽ではいづらいだろうから姓を変えさせ、折りをみて別の所で家庭を持たせようとの劉備のはからいだった。

「もう、あんな失言はするなよ。」劉備がにやっと笑い、軍師もうなづいていた。


趙雲の妻に関しては、この時代よくあることだが、殆ど知られていない。ある伝承によると、彼の死を聞いた妻は即座に自害したと言う。

 

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